『文學界』7月号、DJ松永さんの「ミックス・テープ」を読んで

ラジオに投稿するほどの勇気もないので、ブログの方で認めさせて頂きます。

 

ヒップホッパーはフェイクを嫌う、リアルの文化だとCreepyNutsのお二人は折りに触れて仰っていました。Rさんも松永さんも。

この連載はまさしく、ヒップホッパーであるDJ松永のリアルでした。冒頭のどっかのラジオで聴いたことあるような、当時を思い起こすような、語り。最低な自分は誰しもが持ち合わせるものであり、何かをバカにしたことがある人間、何かをナナメに見ている人間の胸に強烈に突き刺さる文章だった。朝井リョウの『何者』を思い起こした。なるほど二人は仲良いわけだ。

私はCreepyNutsのANN0は初回から聴いている。単発もいつのか忘れたけど、聴いている。悩む相談室はあとから追った。ACTIONを聴くために、radikoはプレミアム会員となった。

単純に松永さんの語る言葉が好きだった。ラジオというメディアはある種諸行無常で、私や誰かの心の中に置き土産だけを残して去って行く。情報媒体はそれぞれ得意な分野や性質があると思うが、私にとってラジオは諸行無常だ。そんなラジオ番組の中で様々なキラーワードとなるものをたくさんくれた。私にとってそれは財産だ。

でも、こうして文章になって残るということはまた違う。むき出しの人間性を見せつけられたような、そんな気がした。自分の感情をゆり起こすのはそれ相応の苦痛を伴うのはエッセイの中でもあったが、いつぞやかのラジオでこんなことを言ってたことを思い出した。

「ゴミをたくさん量産しないと良いものは生まれない」

でもそれはゴミなんかじゃないって他の人から見たら思うし、私もそう思う。実際に、励まされた人もいる(私)。そのゴミと呼ぶべき愛おしいものの積み重ねで今回の連載が決まっている。表現は自分自身の分身だし、もっと言うなら、エゴを切り刻んだものだと思う。見せるのは恥ずかしいし、作るのは感情として痛みを感じる。その痛みを読者であるこちらまで感じさせる文章だったし、今後もこの文章を読んでは松永さんはそれ相応の痛みを伴いながら、自分の行動を決めて行くんじゃないかな、と思う。

人間のありのままの姿をそのまま飾らずに表現することって案外難しいんじゃないかと考えている。先日ラジオで朝井リョウさんが「心をコンテンツ化したものが好き」と仰っていたが、私にとってこのエッセイはそれだった。

「DJ松永ってどんな人?」そう聴かれたときに渡したくなる、松永さんのメディアの上での取り扱い説明書だった。「ミックス・テープ」は紛れもなく、DJ松永の分身とも言える存在なのだと思った。